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地名に見る富里の歴史(第16回 七栄編2)

  • [2022年10月13日]
  • ID:2467

七栄・内野牧の開墾が始まった当初は、順調に進み、稲荷神社では市が開かれるほどのにぎわいがありました。

しかし、内野牧の開墾にあたった人々は、鍬や万能を持ったことのない武士や町人でした。慣れない作業のうえ厳しい労働、台風や三度にわたる大災害があり、開墾当初から居る人は、数戸でした。

 

明治元年には、すでに「下総牧の開墾」の計画が立てられ、実際に開墾が開始されたのは、明治2年10月のことです。
内野牧、七栄の移住は、明治3年4月に始められ、11月に第1陣22世帯が入植しました。
その場所は、七栄の交差点周辺で、東二本榎と呼ばれている地名にあたると思われます。
この榎という地名は、七栄から付けられ、三榎は十倉地区(現在二区)にあることから、開墾が行なわれた順番に付けられていたことがうかがえます。

七栄に移住した人々は、幕臣や町人が大半を占めていたため、農業経験がまったくなかったこと、たび重なる災害、開墾会社の解散もあり、七栄の開墾は困難を極めました。
『富里村郷土読本』によると七栄の開墾は、明治2年から始まり、四つ角付近には、開墾の人の住宅である長屋が東西に長く並び、会社や商店の構えいかめしく、稲荷神社の前の通りには、多くの娼楼(しょうろう)が軒を並べている。前日までは広漠たる原野で、野馬の外には人影もまれで、剽盗(ひょうとう)も出るなど、人も恐れる二本榎の地に一大殷賑地(いんしんち)を出現したのであると記されています。

しかし、明治9年には、西方の原野より出た野火が風にあおられ人家に移り、四つ角まで延焼し、娼楼や長屋が焼土となったと記されています。
また稲荷神社は、移住した武士が、徳川家の神社であった紅葉山から持ってきたものであると言われています。
明治5年末に残っていた158世帯のうち、119世帯が明治19年までに厳しい開墾地の生活のため、この土地を離れています。

この他に開墾がされていなかった土地343町歩を、三菱2代目社長・岩崎彌之助が購入しました。長男・岩崎久彌氏が、土地の利用方法として、地味が痩せていたため、植林を行っています。当初の目的は、農業と畜産であったため「獅子穴牧場」と名付けました。

大正元年11月には、養鶏、養豚の事業を開始し、地形が扇形をしていたことから、「末広農場」と名を改めています。

「採算を度外視して、わが国畜産界の改良進歩のためになるような模範的な実験農場をつくるように」との岩崎氏の指示のもとに、養豚では飼料配合の研究、ハム、ソーセージなどの自家製造、作物については作付や施肥の研究、品種改良の研究などの大事業が、この七栄の獅子穴で行われていました。

七栄

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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