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地名に見る富里の歴史(第10回 立沢新田編)

  • [2013年1月4日]
  • ID:2444

立沢新田は、立沢村の切添新田(きりぞえしんでん)として、内野牧と高野牧の一部を開発してできた村です。しかし、新田開発の記録ともいえる「新田検地帳」は発見されていません。新田開発は、幕府による享保(きょうほう)の新田政策として、幕府の財政を補うためのものでありました。
そして、明治4年(1871年)の戸籍法の制定に伴い、切添新田は本村に吸収されましたが、立沢新田だけは規模が大きかったことと新田内に入村した農民がいたため、十三の村の地名として残ったものと思われます。

 

立沢新田は立沢の東側にあたり、高崎川がS字状に蛇行して流れている北側と南側の台地に位置しています。

この周辺の地形は、北側では台地から水田面にかけては急傾斜であるが、南側は階段のように、台地がつくられています。この段丘の中段から、約1万数千年前の大形の石槍が発見されています。

立沢新田は、立沢村の農民により、佐倉七牧の「内野牧」と「高野牧」の一部を開発してできた切添新田の村です。

新田開発は享保7年(1722年)8月に始められ、同16年(1731年)5月に「新田検地帳」が作成されていますが、立沢新田の検地帳は発見されていません。

しかし、享保期の新田政策により成立したことは、他の「新田検地帳」からうかがうことができます。切添新田とは、田畑の続きの入会地(いりあいち)や山林を切開いて耕地とすることです。

享保の新田政策は、書状により奉行から代官、名主に伝達されたものではなく、江戸日本橋に「高札(こうさつ)」として立てられ、その開発は町人の投資によるものと、代官が行う開発とがあり、私領地の畑を広げる開発は自分のものになりましたが、自分の土地であっても離れたところや入会地・山林を開発した場合は、幕府の支配地となりました。

日本橋の高札から14日後に、代官小宮山杢之進(もくのしん)は、佐倉と小金の牧場の管理と新田開発を任されています。

それは小農民の自立と、幕府の財政を補うための年貢増徴を基本としたもの、また、自然に頼っていた肥料の供給が、元禄のころより干鰯、油粕、糠などの肥料が販売され、農村に浸透したこともあります。

立沢と立沢新田の地名を書き出すと、立沢には、鶴巻、稲荷谷津、向山(むこうやま)、向畑(むこうばた)、水神後(すいじんご)、イノ前野、ロノ前野、ハノ前野、ニノ前野、ホノ前野、ヘノ前野、トノ前野、チノ前野、リノ前野、上谷津(かみやつ)、行人田、八ツ堀、居下(いいした)、台畑、天神前、天神谷津、原畑(はらばた)、地蔵谷津、愛宕台(あたごだい)、後谷津(うしろやづ)、広田、新田下があり、立沢新田には、留塚(とめづか)、愛宕、宮沢(みやざわ)、谷ツ台(やつだい)、北太木(きたたいき)、西太木、向太木、中太木、南太木、東太木で、立沢の字名と関連があるものとして、「愛宕」が上げられます。また北太木などの「太木」が付く字名は、高野地区の西側立沢新田寄りに「太木」の字名があることから、この字名から付けられたものと思います。

また、中沢に「新田下」という地名がありますが、これは新田開発が行われた後の地名であり、以前にはどんな地名がついていたのでしょうか。

立沢新田

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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