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地名に見る富里の歴史(第1回 日吉倉編)

  • [2013年1月4日]
  • ID:2413

日吉倉村は、現在の日吉倉・日吉台地区にあたる地域です。夏の風物・日吉倉の花火大会や大晦日には参拝客でにぎわう熊野神社の由来をたどってみたいと思います。

 

日吉倉は富里の北に位置し、成田市と隣接し東側に根木名川が北に向かって流れています。根木名川から派生する谷津が幾重にも台地を樹支状に刻み、標高の最も高いところは日吉倉新田で40.64m、低いところはジャスコの入り口で9.3mです。

日吉倉の地名の由来についてや、いつごろ誕生したのかは不明ですが、日吉倉の歴史をみると次のようなことがありました。

日吉台ニュータウンの造成で、縄文時代から奈良・平安時代の遺物や集落が発見され、中でも鎮守の森入り口傍の烏山2号墳から発見された須恵器(すえき)の高坏は畿内産で、鉄製の短甲の出土は軍事に関係した人の古墳であることが伺えます。

中世室町(戦国)時代に造られた山城跡が、堀ノ内の地名で現在に残っていて、地元では通称ユーゲ(要害の意味)山とも呼んでいたとのことです。また城跡に隣接するところに桜小路というハイカラな地名もあります。

熊野神社は、大同4年(809年)紀州熊野より勧請されたと伝えられています。また熊野神社の社殿は、前方後円墳の前方部に建てられています。この鎮守の森には3基の古墳があり、富里ではこの他には古墳はないので貴重です。

円勝寺の建立はいつの頃かは分かりませんが、始めは現在の所在地ではなく東台でも南西方向にあったと言われています。円勝寺の山号は太子山といい、その聖徳太子二歳立像(南無佛太子像)を安置した太子宮殿は天和2年に建立されているが、火災により安永9年に太子堂が再建されています。

太子信仰は、室町時代以降に庶民の中で広まり、特に大工、左官、石工、鍛冶屋の人々の「匠の神様」として信仰され「太子講」が結成されています。日吉倉では、成田を中心とした近郷近在の大工に関係する太子講があり、8月21日に奉納花火を上げています。また明治6年円勝寺に日吉倉小学校が開校されています。

古文書には、寛延2年(1749年)大雨による凶作のため日吉倉村百姓30人他4か村により佐倉藩の城下まで訴えを起こしたことと、天保9年(1838年)には家数69軒で人数329人の大きさの村だったことが、記載されています。これらの歴史をもとに現在の日吉倉・日吉台があります。

太子堂正面

太子堂正面

日吉倉村

参考文献

日吉倉円勝寺太子堂解体調査報告書
富里町教育委員会 1997

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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