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地名に見る富里の歴史(第12回 高松編)

  • [2013年1月4日]
  • ID:2454

江戸時代に継立場(つぎたてば)と宿(しゅく)があった高松、佐倉藩の役人が佐倉と木戸小屋までの往路で、くつろげる場所であったと思われます。みどりや、ふじや、まつやの3軒の宿があり、昼食を取ったり宿泊をしたりと、富里では根木名とともに重要な役割を果たしていたところです。

また、継立場と宿があったところは北盛松(さかりまつ)と南盛松という地名で、昔は高い松が茂って、旅人の目印になっていたことでょう。高松という地名の由来もこんなところにあるのではないでしょうか。

 

高松の西側には高崎川が流れ、東は台地で畑が広がり、立沢と接しています。

高松には、大作(だいさく)、宮ノ下、門戸(かど)、大口、古山作(ふるやまさく)、外山(とやま)、黄金塚(こがねづか)、上ノ代(かみのしろ)、宮ノ前、立堀(たてほり)、和田山、北盛松、南盛松、浅間下(せんげんした)、浅間谷津、柳ノ前、和田戸、古谷津(ふるやづ)の小字名があります。

門戸は普門寺があったところで、明治6年には高松小学校が開校し、その後明治31年から昭和20年ころまで、私立高松学館があった所です。

また、門戸には香取神社があり、4月5日には湯立神事が行われています。湯立神事は五穀豊穣(ごこくほうじょう)と、無病息災を願うもので、香取神社に祝詞(のりと)と玉串(たまぐし)を上げ、大釜で湯を立たせて豊作を占い、笹で湯を掛けたり、そのお湯を飲むと病気にならないといわれています。また湯立に使った笹は来た人に配られ、家に持ち帰り荒神様(こうじんさま)に供え、炭は家の門(ジョウボ口)の角に置いて火事避けにするそうです。

黄金塚では5月5日端午の節句の朝に、人形送りという行事が行われていました。

これは、小学生の男子により藁(わら)と半紙で武者人形を作り、1m余りの青竹上に枝を残してくくり付けます。また、ツトッコ(藁で作った入れ物)に餅などを入れ、青竹にぶら下げて黄金塚に集まります。ツトッコを交換して、武者人形の付いた青竹で戦い(チャンバラ)ます。人形が落ちたら負けとなり、その青竹を塚に刺して、ツトッコを持って家に帰るという行事です。

小高い塚は、人形塚と呼ばれ、高松が困った時があったら掘るようにとの伝えのある塚で、このことが黄金塚の地名の由来とも考えられます。

古文書によると高松は、江戸時代の延宝8年(1680年)から元禄10年(1697年)まで、佐倉藩と高岡藩の相給村落(あいきゅうそんらく)でありました。佐倉藩が異国船の接近に対処して幕府から海岸防備を命じられ、嘉永元年(1848年)に匝瑳郡(そうさぐん)木戸村に設置した木戸小屋への往還路となり、人馬の継立をすることになりました。また公用諸役人が成田から東金へ、酒々井から芝山へ通行する場合の継立場でもありました。

安政2年(1855年)の「問屋場御用日記」には、佐倉と木戸村居小屋間を往復する佐倉藩の役人が多く、人馬を必要とした者以外に、昼食や宿泊をしたことが記されています。

戸数がわかるものでは、寛延3年(1750年)高松村名寄帳では屋敷17戸で、明治4年(1871年)では22戸の村でした。

高松

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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