ページの先頭です

スマートフォン表示用の情報をスキップ

地名に見る富里の歴史(第6回 新橋編2)

  • [2013年1月4日]
  • ID:2432

新橋の風景は、真乗院観音堂の木立が田んぼの中に見えます。高崎川を越えて麻賀多神社と幻の寺である宝性院があったと言われています。堀ノ内にある通称「新橋の観音堂」では、今年8月には奉納花火があげられています。
夏の夜空に上がる花火は涼のためではなく、豊作を願っての花火であったことでしょう。花火が終わるとそのあたり一面は、黄金色に色付き始めた稲穂のじゅうたんに変わります。

 

麻賀多神社の石段下には、薬師様が現存し、その西方には、薬師岳や寺沢という地名があり、地名などから考えて、宝性院は薬師様が御神体であったことがわかります。また、麻賀多神社の南側の水田を越えた堀ノ内に、真乗院観音堂があり、大同4年の創建と伝えられています。

観音堂の御神体は馬頭観音で、毎年1月18日に護摩法要、8月17日には花火が奉納されています。その花火の起源については不明ですが、40年前ころは、山ノ下に花火小屋があり、奉納花火が村の人により造られていました。そして境内には、この地区では珍しい下総式板碑があります。

「葦ケ作の伝説地」の芳ケ作(芳は葦の別名)には窪地があり、千葉介胤政(ちばのすけたねまさ)が弁当を食べる時、葦を折って箸に使用し、その箸を地に立てて置いたところ、不思議にも2本ずつ葦が生えていたので、この地を芳ケ作と呼ぶようになったと言われています。また、その時高台の松の木に笠を掛けたことから、この地を笠掛といい、その松を笠掛松と呼んだそうです。

駒詰(こまづめ)の地名があるところには、捕獲した野馬を置いた場所なのでしょうか、またその近くの寺沢台からは、野馬に関係した2条の連綿と続く獅子落しの遺構が発見されています。江戸時代初期には、新橋村の佐瀬刑部が牧士に任命されています。

塚の地名が付いている物見塚には、大きな塚がありその頂上に青面金剛の石造物があります。その東側の畑からは、小さな風鐸が発見されています。また宮塚の道路の切り通しには、貝塚があったと言われています。長塚と笠掛との地名の境界には、下方上円墳の形態の(下が四角く上が円い)塚が杉林の中にあります。

芳ケ作から宇津茂(うつも)にかけての道路工事で出土した直刀(バラバラに折れて発見)や、宇津茂にあったという白幡神社や、顔目笠掛(がんめかさがけ)の台地からは「寺」と書いた墨書土器が発見されるなど、新橋には興味深いものが数多く残されています。

そして東長作からは、応永33年の銘を刻んだ宝篋印塔(ほうきょういんとう)(中沢の昌福寺所蔵)が発見されています。富里で最も古い年号が刻まれたものです。

新橋の風景は、真乗院観音堂の杉の木立と高崎川を越えた麻賀多神社の杉の木立があり、その風景の中には、まだ数多くの歴史が埋もれています。

新橋の観音堂

新橋の観音堂

新橋

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

お問い合わせ

富里市役所 (法人番号1000020122335)教育部生涯学習課

電話: (中央公民館) 0476-92-1211 (社会教育班)0476-93-7641 (文化資源活用室) 0476-93-7641 (スポーツ振興室) 0476-92-1597

ファクス: (中央公民館/社会教育班/文化資源活用室) 0476-91-1020 (スポーツ振興室) 0476-93-9640

電話番号のかけ間違いにご注意ください!

お問い合わせフォーム