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地名に見る富里の歴史(第11回 高野編)

  • [2013年1月4日]
  • ID:2447

高野の台地から湧き出た水は、キラキラと光りながら流れ、小川となりくねりながら、高崎川の支流となります。蛇行して流れる様子は、昔の人には蛇のように思われたのでしょう。このようなことから、この地区には蛇にまつわる伝説の九頭龍様(くずりゅうさま)のお札と長池(ながいけ)の大蛇の伝説が生まれたものと思われます。

 

高野は立沢と立沢新田の南にあたり、高崎川の上流で源流のひとつでもあります。

畑と水田との標高差が少ない地形で、高野の南端に位置するところに「巳ノ口(みのくち)」という地名があります。ここは高崎川の源流にあたり、水が湧き出ているところから、ミヨデグチや水口と呼ばれ、地名の由来になったのではと思います。

また、このあたりには蛇(己)の伝説である九頭龍様のお礼や長池の大蛇の話が伝えられていることも関係しているものと思われます。

高野には出戸(でど)、満々田(ままだ)、埜森(やもり)、弥五山(やごやま)、小金津(こがねつ)、高田、牛房田(ごぼうだ)、下辺田(したべた)、中畑(なかばた)、下辺、猫造、新田下、新田台、流谷(ながれや)、杉ノ木、巳ノ口、広戸、古屋敷、茂神台(もがみだい)、榎戸、稲持(いなもち)、戸山、道祖谷(どうそやづ)、川間(かわま)、宮ノ谷(みやのや)、太木(たいき)という小字名があります。

中畑と新田台の間にある道は芝山の高田から南小学校の前を通り、高野までの直線に近い道です。この道は、古墳時代からつづいていることが高田古墳のハニワの配列から知ることができました。

稲持の北側には、千葉県で唯一の「六地蔵六観音(ろくじぞうろくかんのん)」があります。広戸には、あかちゃんの夜泣きを直すといわれている「夜泣き地蔵」があります。また、江戸時代には「高野牧(こうやまき)」があった所で、戸山の西側に土手を囲って作った捕込場があり、9月には捕込に野馬を追い込む壮烈で勇敢な野馬追いの行事がありました。この時は大いに賑わったことと思われます。

古文書によると高野は、寛文4年(1664年)「寛文印知集(かんぶんいんちしゅう)」には松平和泉守(まつだいらいずみのかみ)の領地、元録13年(1770年)「下総国各村級(給)分」には戸田能登守(とだのとのかみ)知行とあり、宝永8年(1711年)の文書では稲葉丹後守(いなばたんごのかみ)の領地で、石高162石9斗8升4合の佐倉藩でした。

高野の新田開発は持添(もちぞえ)新田で、享保16年(1731年)「下総国印旛郡高野新田検地帳」には宮根、茂神台の2か所が開発されたとありますが、現在は宮根という地名は見当たりません。寛延3年(1750年)農民持高をまとめたものには、村高91石余の小村落で戸数17戸とあります。

年貢納入における連帯責任や監察を目的とした五人組の組合があり、天保4年(1833年)の五人組帳では、5人のグループが5組と3人のグループが1組であり、戸数は28戸あったことが分かります。

また、この年は、関東一帯に大風が吹き荒れ、富里でもほとんどの民家が破損し、大きな被害をもたらしました。そのため高野村では、村議定を決め、質素と倹約を強調したと記されています。

古墳時代からの古い道、巳ノ口にまつわる蛇の伝説、稲持にある六地蔵六観音、江戸時代の野馬追いの歓声がまだ残っている様な気がする高野です。

高野

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

 ※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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