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地名に見る富里の歴史(第9回 立沢編)

  • [2013年1月4日]
  • ID:2442

立沢の行人田(ぎょうにんだ)谷津の傍では、大昔(奈良時代)の素焼きの器(須恵器(すえき))を登窯で焼いていた所がありました。この窯で焼かれた器は、遠く市原方面へ流通していたようです。
八ツ堀に残されている土塁、空堀の一部は、ここにお城があったことを伝えている唯一のものですが、なぜこのような谷津の奥まったところに山城が造られたのか不思議です。

 

立沢は南北に長く、その北側寄りに高崎川がS字状に蛇行して流れています。北側は七栄と大堀、東側は高野、南側は十倉と高松、西側は中沢に接しています。高崎川は立沢に入って水神後(すいじんご)と八ツ堀との間に南に分かれた谷津があり、その谷津は行人田に入り、その東に「バチノス」と呼ばれているところがあります。

これは、谷津の谷風を利用して焼く須恵器(平安時代)の登窯のことです。この浅い谷から、行人田の水田に須恵器のかけらが多数流れていたのを見たことがあります。この無数の素焼きの器のかけらを見た昔の人が鉢の巣が有ると思い、方言で「バチノス」と言われるようになったのでしょう。

八ツ堀には、中沢城址と同じ頃の山城があり、現在は土塁、空堀の一部が残るだけですが、この八ツ堀は三方が水田に囲まれた地の利を生かして造られたお城であると思われます。八ツ堀の西側には、斜面地を整形した跡などがうかがえるところもあります。

天神前(てんじんまえ)にある稲荷神社には、数多くの小形の道祖神があります。またその北側にある観照院には、富里で最も古い寛文11年(1671年)の阿弥陀如来と、地蔵菩薩は日吉倉の次に古い宝暦5年(1755年)の石造物があります。また天神前から台畑に入った崖の上には、中世の板碑のかけらがあります。

高野の野馬捕込(のまとっこめ)から八ツ堀、行人田と水神後の間を抜けて向山(むこうやま)へ通じる古道があります。この道は高野の捕込で捕らえた野馬を中沢、新橋を経て、酒々井の野馬会所(島田家)まで運んだ道筋で、この道を野馬引き道と呼ばれていたという言い伝えがあります。

また水神後と行人田の境にある交差する道には、延享2年(1745年)年の大きな庚申塔と、嘉永3年(1850年)の二十三夜塔が、屋根が架けられ大事にされています。

立沢を古文書からみると、寛文4年(1664年)「寛文印知集」には、高岡藩(成田市高岡)井上筑後守(正清)の領地と記載されていますが、いつからいつまでであったかは不明です。元禄10年(1697年)まで富里を領地としていたことが、「元禄の地方直し」による領主の交替が、高松の「年貢割付状」や「下総国各村級(給)分」の記載からうかがえます。

立沢の土地については享保7年(1722年)の「高反別覚」立沢区有文書によると、田26町余、畑7町余、他に38町の「内野萱芝野地(かやしばやち)」、これは牛馬などの飼料に使う秣場(まぐさば)が一か所あったとされています。

立沢の中世の城址は、谷津の奥に造られた山城で記録されたものが無いのがとても惜しい気がします。

立沢城祉

立沢城祉

立沢

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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