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地名に見る富里の歴史(第15回 七栄編1)

  • [2018年9月6日]
  • ID:2463

七栄は、明治初めの開墾で七番目に開墾されたので、「七栄」という地名となりました。また、それよりも古い時期につけられた地名は、野馬牧場に関係したものでした。

下総一帯には古墳時代から馬と人との関わりがあり、中世ごろには今も七栄に残る野馬土手が作られています。

 

七栄は、明治以前は内野牧と呼ばれ、佐倉七牧のひとつでした。

七栄という地名になる前に、現在の小字名は付けられていました。七栄には、新込(しんごめ)、新囲(しんがこい)、小溜袋(こためぶくろ)、古囲、北大溜袋(おおためぶくろ)、南大溜袋、西内野、笠木野、南内野、人形台、東内野、東二本榎、古込(ふるごめ)、北新木戸、南新木戸、中木戸、西二本榎、獅子穴の地名があります。そして笠木野、人形台、東二本榎、西二本榎を除いた他の地名は、内野牧に関係した地名です。

「獅子穴」の獅子とは、野馬を襲う野犬などの総称で、その野犬などを陥し入れる数多くの陥し穴が掘られたいたことがうかがえます。

中木戸などの「木戸」が付く地名のところには、土手と土手の間に作られた木戸があったところです。新込、古込の込めは、野馬を捕まえるために升形に土手が作られた捕込のことです。古込の地名は、江戸時代、徳川吉宗が将軍となり、享保7年(1722年)の改革の一端として幕府牧の改正が行われ、これが契機となり、この時期より前に作られていたものに対しては「古」を付け、これ以後に作ったものには「新」を付けたように考えられます。

しかし、古囲や古込が造られた時期については不明ですが、下総に馬がいつごろからいたのかは、律令法の施行細則を集成した法典「延喜式」(967年)に、下総国には5つの「牧」があったと記されています。

また下総旧事考によれば、天正11年(1583年)北条氏政は千葉邦胤(ちばくにたね)に命じ下総牧をつくらせ、牧士を任命したと伝えられています。さらに、これよりも古い古墳時代に馬のハニワがあることから、この下総台地には馬がいたことがわかります。当時、馬が飼育されていたかどうかは不明ですが、中世になると牧をつくらせ、牧士を任命していることから、牧場の存在がうかがえます。そのころの牧場は木柵によって作られていたようですが、木は数年で腐り倒れてしまうことから、土手を築くようになったようです。このことは、野馬土手の発掘調査によって確認されています。

七栄は、新しいところだと思われていましたが、このように野馬に関した地名から探って行くと、かなり古い時期から人と馬の往来があったことがわかります。(つづく)

内野牧の野馬土手

内野牧の野馬土手(国道409号線周辺)

七栄稲荷神社

七栄稲荷神社(七栄十字路周辺)

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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