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地名に見る富里の歴史(第13回 十倉編1)

[2013年1月4日]

十倉がまだ十倉と呼ばれる前のこと、高野牧はあまり人間の手が加わっていない自然で、この地が開墾地となりました。

明治3年11月4日、東京隅田川を船で下る13世帯45人の人々により十倉は誕生しまた。

 

十倉は江戸時代高野牧の野馬牧場の一部で、高野牧の範囲は富里郵便局の先大堀との境界にある野馬土手から、県道八街・三里塚線の八街市との境界となる左側にある野馬土手、さらに二区や三区、そして御料の動物愛護センター付近までの広大な台地上となります。

野馬牧場といっても、今の牧場のように人が管理した牧場ではなく、原野に馬を放して自然繁殖の牧場でした。要するに人間の手が加わっていない自然が開墾地となったわけです。

よって見渡す限り一面の原野で、自然に生えた雑木林が所々にあったものと思われます。この原野には、高崎川と根木名川の谷津が侵入し、源となっています。

十倉がまだ十倉と呼ばれる前のことです。明治3年11月4日の夕方、東京隅田川を船で下る13世帯45人は、翌5日早朝行徳に上陸し、市川、中山、船橋を歩いて臼井に一泊。佐倉、酒々井、新橋、立沢、高松を過ぎ高野牧に到着しました。この45人が開墾に入った第1陣とされています。この45人は開墾会社が用意した金堀農舎と実の口農舎と呼ばれた住まいに案内されました。

この他に埼玉移住民とする入間県管下、武蔵国入間郡南入曽村の農業、栗原貫三による入植がありました。明治3年初めの品川県役所の下総台地の開墾志願者の募集によって、同年5月に高松の旅籠藤屋で十倉開墾会社手代、福田半兵衛と面会し、農民20戸が自力で開墾し、一組一村の民家を建てたいので、一戸当り5町歩の土地の割振りを願い出て、認められ、11月10日には志願者20人連印の願書を開墾会社に差し出し、翌年2月18日開墾に着手しました。当時ここを高野牧三野久保と呼んでいましたが「栗原」と改めています。この地区は、武州とも呼ばれています。開墾に入った時には金堀や実の口の地名があったようです。

入植は明治4年、2月、4月、9月とあり、総数102世帯347人となっていました。そして明治5年、印旛県が新政府に村名の申請をして十倉村が誕生し、字名は、次の通りです。

榎頭、三榎、四榎、六榎、十榎・二十三・二十四・二十七榎、二十五榎、二十六榎、二十七榎、二十八榎、二十九榎、三十榎、三十一榎、三十二・三十三・三十八・四十二・四十三榎、三十四榎、三十五榎、三十六榎、三十七榎、四十二榎、四十三榎、四十四榎、四十五榎、四十六榎、四十七榎、五十二榎、五十三榎、五十四榎、五十五榎、五十六榎、五十七榎、五十八榎、五十九榎、六十榎、六十一榎、六十二榎、六十三榎、六十四榎、金堀、南大堀、大堀、旧平、栗原、実の口、葉山入、両国沖、猪ノ頭、山室入内、山室入外、高田入、牧野入、四区(つづく)

下総御料牧場の牧舎
下総御料牧場の牧舎

明治時代の建物 下総御料牧場の牧舎

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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