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地名に見る富里の歴史(第7回 中沢編1)

  • [2013年1月4日]
  • ID:2435

江戸時代亨保19年(1734年)の中沢村丑年証文帳によると、中沢村・新中沢村の百姓は明確に区別され、村役人もそれぞれに置かれていたことが記されています。しかし、一つの区域として新中沢村が在るわけではなく、一つの字名の中に中沢村と新中沢村の領地が存在します。
それは何を意味したのでしょうか。

 

中沢は、南北に長く、北側は七栄・南側は八街市に隣接しています。高崎川は中沢の西側に侵入し、古作・川中郷・川津場で北方の七栄方面に溯るものと、東方に直進し立沢・高野方面に溯るものと、南方の高松方面へと溯り、高崎川は三方向に分散します。

このことから、新橋から溯った高崎川は、中沢で十字状を示しています。そして中沢地区は、この三つの谷津により分断された特徴ある地形(下写真)を示しています。

この川のそれぞれの台地には、原始・古代から中世へと数多くの遺跡があります。それを物語るように文録3年(1594年)の検地長には、昌福寺だけではなく見正(星)院・正(庄)蔵院・名正院・成(常)福院・長福寺・併福院・成正院があります。

また、貞亨3年(1686年)の名寄帳には自性院が加えられていますので、九つの寺院の存在を知ることができます。

そして中沢という地名は、平安時代末期久寿2年(1155年)の「印東庄郷司村司交名(ごうじそんじきょうみょう)」という古文書に「中沢苅田弘益」という地名を付けた荘官と思える人物が記されていることから、この年代までさかのぼることができます。

中沢に寺院が多いことからも、小単位の集落があったように思われます。そして、一つの字名の中に中沢と新中沢とがあります。

中沢単独の地名は、古作(こさく)、野馬木戸(のまきど)、松原、升堀(ますぼり)、牧野、南山、高野台の7箇所です。

そして新中沢の地名と重複している地名が、賀良(から)、後田(うしろだ)、大清水、仙上(せんがみ)、花輪台、滝台、滝ノ下、矢崎(やざき)、塚越、出戸(でど)、狐谷津、谷津台(やづだい)、木戸、南台、梅田台(うめただい)、原、以后田、広畑、向台(むこうだい)、狐下、町田、川中郷、川津場、高野橋、棒辺田(ぼうべた)、南、高松下、兎谷津、梨ノ木、唐川(からかわ)、大下(おおした)、古唐川(ふるからかわ)の32にも上ります。

新中沢単独の地名は、南新田、唐川台、横谷津台の3箇所です。

このように、中沢と新中沢との字名が重複していたのは、始めは間違いではないかと思いました。しかし、富里村土地宝典をみると、一つの字名の中に新と記入され、新中沢の範囲が示されています。この記載を見ると、新中沢村は中沢村の中に、新たに加えられた村であることがわかりました。

さらに疑問がわきました。
「なぜ、同じ字名の中に2つの村が存在したのでしょうか。」(つづく)

中沢の今の風景
中沢の図

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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