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地名に見る富里の歴史(第8回 中沢編2)

  • [2013年1月4日]
  • ID:2438

中沢には、ジョウヤマと呼ばれているところがあります。城山は字野馬木戸(のまきど)の西にあり、中世室町時代の山城で、土塁、空堀、腰曲輪(こしぐるわ)、虎口(こぐち)が今でも残っています。

この城は、千葉氏に関係するもので、滝下にある妙見神社は千葉氏の守護神を祠神社で、厨子の中には亀に乗った妙見立像が納められています。

この時期の中世城址には、一寺・一社が配されるものですが、中沢には神社はありますが寺は現存していません。そして、城山の南側斜面に生えている熊笹は、城に侵入者があれば、熊笹に触れて「ガサガサ」と音が出るために植えられたものです。

そして野馬木戸では、平安時代の竪穴住居から小形の鋸が発見されていたり、谷を越えた塚越からは、工業団地の調査で、お寺と考えられる二間三間で四面庇(しめんびさし)の掘立柱跡が発見され、またその周辺の竪穴住居跡内から「和銅開珎」が発見されています。

鴛鴦(えんおう)寺の伝説は、千葉胤政(たねまさ)がこの地で遊猟に出て、獲物がなくたそがれ時の帰り道、池を通りかかると二羽のオシドリが水面にいたのを見て、矢を放し雄のオシドリに当たったが草むらに消えたので、次の日に捜したところ雄鳥の翼に雌鳥が首を挟んで死んでいた。これを見た胤政は、鳥と言えども夫婦愛の深いものと関心して、哀れみ二羽の屍(しかばね)を厚く葬り、一寺を建てて、冥福を祈った寺が鴛鴦寺であると伝えられています。

この寺の跡は、三町(327m)離れた滝谷津の懸崖で、清水の湧き出ているところとされています。滝谷津という地名はないが、滝下や滝台と滝の付いた地名が存在することから、この周辺にあったものと考えられます。またオシドリのいた池は、中沢から立沢に通ずるところの大谷津で、昔は池であったと伝えられていますが、大谷津とは通称名と思われます。そして矢の向かった先が矢崎だと言われています。

新橋から中沢に入った高崎川は、古作、川中郷、川津場で三方向に分かれ、そのそれぞれの台地には塚があったと言われています。そしてこの十字状になった水田の中央が小高くなっていて、この場所に弁天様を祠った建物があり、大雨の時も水にひたることはなかったとのことです。そしてこの弁天様を四又四塚(よつまたよつづか)弁天と呼び、現在では小さな鳥居と赤い祠(ほこら)は、川津場の方へ移動しています。

城山から中沢を見れば右側に妙見神社、その先は昌福寺、そしてその先の水田には四又四塚弁天、その先には新橋観音堂があります。左側には稲荷神社、さらに左先には矢崎があります。

矢崎は、鴛鴦寺の伝説に関係ある地名で、この字矢崎は、中沢と新中沢があることから、城山や鴛鴦寺の伝説の時代以後に、中沢の中に新中沢が出現していることが地名から判断されます。

中沢には、この他に梅田台の大きな塚の話や木戸に伝わる、触ると祟りがある話など多くの話や不思議な歴史があるようです。

妙見神社

妙見神社

中沢の図

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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