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地名に見る富里の歴史(第3回 大和編)

  • [2013年1月4日]
  • ID:2426

「大和」と書いて、ヤマト、またはオオワと読む。
天正19年の検地帳には、「大輪」と記されていたことから、富里の大和は、オオワと読んでいたことがわかります。
緑色になった水田を見ると、奈良の大和を連想します。
大和の駒形神社で行われていた法楽神事には、能が舞われていたといいます。そんなことを聞くと、なおさら遠い大和のことが気にかかります。

 

大和は、根木名川の上流で日吉倉・久能と続く地域で、地形や自然環境は、日吉倉・久能と同じです。

大和には、真照院というお寺があり、本尊は大日如来で酒々井町東光寺の末寺です。安永9年(1780年)火災で弘法大師像などを失い、その後30数年間を経た文化7年に、名主庄兵衛等の助力によって復興しています。しかし現在の建物は、この時に再建されたものではないようです。

神社は古くは、駒形神社.八幡神社.子安神社と三社がありましたが、明治43年に合わせて祀るようになりました。寛政元年に真照院再建のため、駒形神社の立木の売り払いで、氏子と村方で騒動が起こっています。

そして駒形神社では、4月3日に豊楽の神事が行われていましたが、現在では成田市八生神社から神主を呼び、神事をしてお神酒を頂くだけの行事となっているとのことでした。

大和には、小字名が30か所あり、その多くは自然や地形的な事柄により付けられています。

なかでも根木名よりの谷津田に、島のように見える地形があります。これを島影と呼ぶ典型的な例があります。また庚塚と書く地名は久能にもありますが、久能ではカネヅカと読みますが、大和はカノエヅカと読みます。

小字名は、庄ケ池下、山吹谷津、根木名下、島影、細身、権現下(ごんげんした)、久保池、松ケ下、川栗橋、野田谷津、中兵(なかびょう)、大谷(おおざく)、三ツ又、竹沢谷、井戸向、早馬、ぐみノ木、西ノ台下、西谷津、池尻、山ノ中、中ノ口、松花、出口、庚塚、額谷(がくざく)、古堀、赤坂、池台、二久保があります。

大和を古文書からみると、富里では最も古い土地の面積を記録したもので、天正19年(1591年)2月に「下総国印東庄大輪御縄打水帳」と記された検地帳が残され、大和を大輪と書いています。

享保16年(1731年)に新田検地が行われ、その中に大和も新田開発をしている事がうかがえます。天保4年(1833年)の大和村家数20、人数104人、薪炭の生産が盛んになり、安政2年(1855年)大和村は寺台村の定助郷と安政4年(1857年)には根木名の定助郷の記載がありました。

大和の駒形神社では、豊楽神事の際に能が行われていたようです。駒形神社は、一般には馬と蚕の守護神としての信仰があり、大和の駒形神社の社殿にも白馬の彫刻があることから、馬との関係のある神社であることがわかります。

駒形神社

駒形神社

大和村

参考文献

富里村史 通史編
1981年7月 富里村史編さん委員会

※広報とみさとに掲載されたものを再構成しています。

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