旧岩崎家末廣別邸主屋一般公開に寄せて・カントリージェントルマン久彌の夢のあと(令和7年4月28日)
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メッセージ
人類が初めて富里の地に足跡を残したのは、今からおよそ3万年前の旧石器時代であるとされています。以来、富里の歴史は時代ごとにその特徴を残しながら現在へ連綿と続いてきました。特に近世から近代にかけてこの富里の地に大きな変化のうねりが押し寄せてきます。
近世江戸時代には幕府直轄により牧の運営が強化され、富里一帯の様相が変わっていきます。近代となり明治期には大規模な開墾が行われ、それに伴い大久保利通内務卿によって下総牧羊場が開かれ、日本初の近代牧畜が開始されたのです。残念ながら明治政府が主導となったこの事業は確固とした成功を見ることなく終えることになりました。しかし、その後の紆余曲折を経てこの広大な土地が岩崎家の所有になったことで、大正元年の末廣農場誕生となるのです。
事業としては一時中断されていた末廣農場を発展させたのは、三菱の社長を退任し小岩井農場の経営にあたっていた岩崎久彌でした。
久彌には夢がありました。それは、人のために役立つ農場を作り上げることでした。畜産の改良進歩を目指すとともに、土地に合った大豆の栽培方法やより多く収穫するための方法を研究し続けました。そのために私財をなげうって、当時最先端の機材、技術に資材を投入し先進的な農法を通して多くの研究を行ったのです。こうして我が国の農牧事業に多くの功績を残しました。地位や名声におごらず自然を愛し、農場で働く農夫たちとのふれあいを大切にした久彌の夢が叶ったのです。
そんな久彌の人柄を伝えるエピソードがあります。戦後、GHQが断行した財閥解体と農地解放によって末廣農場の一部は千葉県のものとなり、その他は農場員に下げ渡され、久彌が愛情を注いできた末廣農場が解体されることになりました。しかしこの時、自分の手から離れていく農場を耕し、秋の収穫に間に合うように野菜の種をまいてから農場員に引き渡したと伝えられています。自分の悲しみや辛さを覆い隠し、他人のことを思いやり行動することが久彌の信念であったことをうかがい知ることができます。
そんな逸話の残る久彌が愛し晩年を過ごしたのが旧岩崎家末廣別邸の主屋でした。大正末から昭和初期にかけて建築されたとされるこの主屋は、当時の建築技術の粋を集めた近代和風建築でした。石膏ボードを使用し耐震耐火に優れ、意匠にもこだわった質実であり瀟洒でもある秀逸な建造物です。当時の様子を偲ぶにあたってはこれ以上ない歴史的な遺構であります。
こうして私たちの故郷の偉人や遺物・遺構にふれ、共感しながら当時を偲ぶことでより本市に対する愛情と先人に対する畏敬の念を醸成していきたいと強く意識しました。
令和7年4月
富里市教育委員会教育長 大澤 昌宏
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