末廣農場の歴史的背景や久彌の「人となり」を知る術は、末廣農場の範囲の中で唯一残された「旧岩崎家末廣別邸」の存在が手掛かりとなります。そこで「建築的価値」、「庭園的価値」、「歴史的価値」という末廣別邸を取り巻く三つの価値を設定することとし、それぞれの価値の構成要素を確認してみました。
建築的価値
大正8年(1919)、岩崎久彌が末廣農場の経営に自ら携わるようになったことから、農場に滞在するための別邸が建築されました。昭和初期に建築された近代和風住宅で、厳選された材料を用い洗練された空間は、久彌の好みがよく反映されています。また保存状態が比較的よく、久彌の暮らしや生活文化を知ることができる遺構として貴重です。以下が4つの構成要素です。
- 末廣別邸は、岩崎久彌が末廣農場の経営のため滞在用に建てた、主屋・東屋・石蔵、その他の附属屋からなる近代和風の「農場別荘」であり、昭和初期における上流階級の別邸としての貴重な遺構として高い歴史的価値を持っています。
- 主屋は、庭園に南面した座敷を主とした簡素・上質な伝統的和風住宅をベースに、中庭型の明快な平面計画として、モダンな建具意匠、暖房器具などの最新の住宅設備、関東大震災の教訓を活かした耐震構造の考え方などが積極的に採用されており、近代の和風住宅の好例と言えます。
- 東屋は、庭園の形式を楽しむために設けられた応接室のような建物で、ガラス障子で眺望を確保し洋式家具をしつらえ御茶屋風の雰囲気がうかがえます。主屋とは一風異なり、野趣に富んだ材料で構成されており、庭園と一体となったたたずまいとしています。
- 末廣別邸の設計者は、洋風住宅の設計を得意とした岩崎家庭事務所の津田鑿(さく)であり、華美な造りや装飾を好まない久彌は当時最新の近代住宅に精通した津田に近代的な和風住宅の設計を依頼したと考えられます。津田はこの他にも国分寺市にある殿ヶ谷戸庭園の別荘も設計しており、末廣別邸主屋と類似のしつらえが多く見られます。
庭園的価値
庭園は農場以前の植林形態を残しつつ、主屋と東屋を絶妙に配置することによって構成されています。また、おおらかな植栽景観は四季それぞれの趣をもっていることから「自然主義」の傾向を見出すことができ、全体として富里市の原風景を思わせる「里山的景観」を呈した近代日本庭園であることから貴重です。以下が4つの構成要素です。
- 末廣別邸の庭園は、末廣農場内にあった人工林を切り開き、建物の配置を含めたダイナミックな構想の下に設計が行われていると考えられます。
- 庭園は、門から玄関までの「前庭」、主屋を中心とする「主庭」、東屋周辺の「庭」、主屋と石蔵などの周りの「実用庭」の4つに区分されます。
- 主庭は「書院造庭園」と呼ばれるもので、西十畳および中十畳からコウヤマキ、コブシ、ヤマザクラ、カエデ、ウメなどによるおおらかな植栽景観が楽しめ、東十畳(久彌臨終の間)からは、象徴的なクスを見ることができるなど、部屋ごとに異なった構成となっていることが特徴です。一方、東屋に対する庭の南面には、久彌自身が手掛けたと伝聞される「畑地跡」が存在しており、農場別荘としての特徴を体現しています。
- 植栽された樹林の他に、当地に自生する山野草が四季折々に咲き乱れる景観であったことが写真から確認されていますが、建物の雨落ち溝の際までノシバが植えられている点や、洗出しの沓脱石(くつぬぎいし)が採用されている点は、明らかに江戸時代の庭園とは異なる趣を呈しており、洋風の要素を吸収しきって成熟した近代日本庭園の景観を示しています。また、この庭園を設計したのは久彌自身との伝聞もありますが、詳しい資料が見つかっていないことから建物同様に専門の設計者が存在した可能性も否定はできません。
歴史的価値
旧岩崎家末廣別邸が建築された末廣農場は、大正元年(1912)、旧三菱財閥三代目総帥だった岩崎久彌が開場した農場であり、大正8年(1919)、久彌が農場運営に自ら乗り出した際に打ち出した経営理念は「採算を度外視して、日本の畜産会の改良進歩を図るための模範的実験農場」であり、当時としては珍しい設備と機械を導入した先進的農法が実践されると共に、数多くの研究が行われ、日本の農業牧畜研究に多くの功績を残したと伝聞されています。現在でも、富里の基幹産業が農業であることを踏まえると、末廣農場での先進的な試みは富里市の農業遺産と言っても過言ではありません。以下が2つの構成要素です。
- 末廣農場範囲の中心部に位置し、財閥解体と農地解放によって消滅した同農場の面影を残す唯一の場所です。
- 昭和24年6月21日、久彌は東京の本邸を離れて末廣別邸に移り住み、昭和30年12月2日にここで息を引き取ったことから、久彌の人生「終焉の地」となっています。