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富里牧羊場跡

  • [2022年8月22日]
  • ID:1140

千葉県指定記念物【史跡】

富里牧羊場跡(とみさとぼくようじょうあと)

【写真】富里牧羊場跡

富里市十倉字両国沖1322-4

両国十字路を高根病院方向に120メートル程進んだ左側に、神武天皇をまつる神武神社とそれを取り囲む杉の木立が見えてくる。この神武神社の社の後方に、今回紹介する「富里牧羊場跡の碑」がある。

富里市と聞いて、多くの人が「馬」と「西瓜」を連想されると思う。
その連想どおり、馬については肥沃な原野を背景とした牧場経営は平安時代まで遡ると考えられ、江戸期になり徳川幕府の下総地方への入府により、大規模な「牧」経営が組織的に運営されてきた土地柄でもある。

このような下地があったことと、近代牧畜の必要性を説く、時の内務卿大久保利通の働きにより、明治8年(西暦1875年)、殖産興業の一つとして毛織物の原材料となる羊毛の国内自給を図るため、明治政府は日本で最初の「牧羊場(下総牧羊場)」を富里市十倉、御料などに開設し、それらを管理する事務所を両国に置いた。

国内初の牧羊場経営という試みであったことから、明治政府はアメリカ人牧羊家のD.W.アップジョーンズを招き、牧羊場地の選定から飼育の仕方まで指導を受けることとなる。しかし、明治11年8月29日の夜、D.W.アップジョーンズは牧羊場の官舎で賊に襲われて重傷を負い、翌12年には退職するという事態に陥ってしまった。

このことが災いし、下総牧羊場は当初の計画通りの成果を上げることが不可能になり、明治13年には付近の取香種畜場と合併し、「下総種畜(しゅちく)場」と称すことになり、短い牧羊場経営に幕が引かれた。

その後、昭和17年に「下総御料牧場」として再生を果たしたが、昭和41年この地に新東京国際空港の建設が計画されたことなどから、下総台地における大規模牧場経営の歴史に終止符が打たれた。

建立された記念碑は、近代牧畜の発祥と、大久保卿の画期的な計画を顕彰(けんしょう)し、脈々と続いてきた「牧畜の歴史」を私たちに伝えているのである。

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